コロナで死んだ、日本死ね

こんな日本に住みたい人も働きに来る人もおらん。てことは、住まざるを得ない、働かざるを得ない事情があるはずである。離れたくても離れられないからこそ、改善、改変とゆう辛抱強い努力が必要になるはずである。こんな日本に誰がしてきたのか。本当に死ぬわけではない。生まれ変われ、生き直せ、ということである。

社会の一員

この社会の一員である、この感覚がない、もしくは薄い。その一員として、何をしなければいけないかとか、本当のところで、思っているのだろうか。社会に尽くすみたいなことは、湧いてこない。個々別々の事柄には感じる。でも一般社会には思わない。何かがちがう。これは危うい意識なのだろうか。こうボヤボヤしてるうちに死なされていくのだろうか。

加害者と受益者は同じか?

私は男に属しているのか?その利益を得ているのか?それは男ゆえにだろうか?何故にだろうか?

王家の娘と平民の男はどちらが利益を得ているのか?その利益の分配は誰が決めるのか?もらう側が決めれるものだっただろうか?与えられなければもらえないはずだ。知らぬうちに与えられてしまったものを、いかにして返還すればいいのか?その返還責任は私にあるのか?そしてその「現状」の変換責任は私にあるのか?

その行動は責任に基づいて行えるものだろうか?責任さえ示せば勝手に人は動くのだろうか?そのようなことはない、というのが実感だ。行動の下支えは調査や事実であり、行動する力は走り出すことそのもの、まさに運動そのものである。走り出せば止め辛くなるだろう。良くも悪くも走り出したら止めづらい。問題は、点検所を適宜設けることだが。エンジンに責任および責任感は機能し得るだろうか。とくに自己破壊的な、自己変革的な過程を経ることを求める責任追及、しかもその過程が曖昧模糊とした中で、何を変革できるのだろうか?何が変えるべきもので、何がそのままでよいものなのか?

誤解される権利

誤解される権利を使っていくということは、自分を誤解を生み出すコンテクスト、状況に置くということであり、つまり安定しきった内部から、思う通りに読まれない外部へ向かうことである。

経済的強制労働

経済的徴兵制とゆう言葉がある。ならば、経済的強制労働とゆう言葉で事態を捉えても良いのではないか。

日本における外国人実習生制度は、送り出し国と日本の共犯関係により成り立つ。送り出し国における経済格差、教育格差の問題や、福祉制度の不十分さを無視して、下層の人々を悪徳ブローカーが斡旋し、悪徳企業に売り渡す。日本国内でも行われていたことが国境を越えて行われている。日本とアジアの搾取・被搾取関係、経済格差の温存、植民地主義の無視を背景に、経済的な強制労働が戦前から続いている。

捕虜や囚人という奴隷を失った戦後からは、経済的な強制労働が続いてきた。そのように捉えると、「経済的強制労働」と言えるのではないか。

そしてそれは、移民政策とゆう「誘致」ではなく、あくまで「実習」とゆう学習の言葉で語られ、強制性が省かれ、その自発性ないし自己責任が前面に出されたり、「デカセギ」として、短期間のものとして認識させられる。

あらためて、短期雇用とゆうものの重要性とその実際の境遇の隔たりを考えるべきでもある。