自分教

自分の人生語りと教訓語りって、自分を教祖にした信仰宗教と近しい。でも、それが自分のための語りなのか、悟りなのか。それとも、他人に伝え伝播させ金を集めるものなのか、それが、自分の道をゆく求道者と信者を集める教祖のちがい。麻原彰晃も、自分で自分のために教えを編み出すだけなら、人を殺しただろうか。

言葉のつかいかた。おきなわ、やまとぅ、ないち、ほんど

言葉の歴史的負荷について。(長文)
「内地」や「本土」という言葉は、沖縄を「外地」「周縁」とし、沖縄以外の日本の土地が、「本土」・「本国」であり中心であり、なおかつ本土の方が重要であり、本土のためには外地や周縁は多少の犠牲は仕方ない、とする構図を固定化する(可能性がある・高い)、みたいな話。
この「内地」「本土」と並んで、「大和(ヤマトゥ)」という言葉もある。内地・本土と、大和を比べて思ったのは、「大和」だと、そこには近代の植民地主義の枠からはみ出た名指し方があるように思う。もちろん1609年からの薩摩による侵略と搾取はあったけど、それ以前から、大和という言葉は使われてたろうと思う。そこが、内地・本土と、ヤマトゥのちがいかなあと思う。だが、言いたいことはそこじゃない。
これらの、時代の状況に由来を持つ言葉を使う人全員に、「それは植民地主義の温存だ」とゆうような批判を向けるのは、すこしどうかなあと思う。おそらく、植民地主義の歴史に触れない中で育つ人間にとって、「内地」も「本土」も、目の前にあって学んだ言葉と同じようなものである。米軍基地の建設後に生まれた人間にとって、それが、すでにこの世界の一部であり、自然な当然なものとされるように、「内地」も「本土」も「ヤマトゥ」も「ナイチャー」も「ヤマトゥンチュ」も、一定の使用法と価値をもって使われているに過ぎない。そしてどれも、価値中立、というより、両価値的に、場面によって、否定でも肯定でも使われる。
そのような、そもそも両義的となっている・てきた言葉を、使用禁止にできるだろうか。両義的に用いる人に対しても使用禁止にできるだろうか。また、使用禁止にして後に、どの言葉をもって沖縄県以外を名指せるだろうか。「県外」と言えばいいだろうか?
だが、問題は、直接的に接触する場面で、「沖縄」という名詞とともに「沖縄県外」を一枚岩的に語ることではないか。沖縄にも各市町村で各仕事につとめる各家庭の各人がいて、沖縄県外でも各都道府県の各市町村の各家庭の各人がいる。私が「沖縄の人」と呼ばれて、そのあとに「沖縄」を代表する言葉を期待され、「沖縄」のことを話すよう促されることに違和感を感じるのはそこである。私は沖縄県の知事でも観光特使でもない。ここ。この代表するとゆう制度において、「沖縄」と「内地」「本土」「ヤマトゥ」という対置は意味を発揮する。
「ナイチャー」「ヤマトゥンチュ」を、価値観とともに使うとき、その人は、自分自身を「ウチナーンチュ」か「ナイチャー・ヤマトゥンチュ」のどちらかに置く。そうしないで感情を伴った価値判断ができるだろうか。できないだろう。
しかし、その一方で、価値観なしに「客観的に」語る場合もある。そこには沖縄を閉じる可能性も開く可能性もあると思う。閉じる可能性は、沖縄ー内地の一枚岩的見方の温存である。ここでは「沖縄」と「沖縄県外」の特徴を述べる際、各特徴を言うとき、他項の中にもある同じ特徴は無視される。「うちなーたいむ」を語るときに、「幡多じかん」(高知県幡多に住む人の中で一定程度共有されているらしい、時間に対するおおらかなかまえ)は無視され、また沖縄の人の勤勉さや過労も無視される(そしてゆっくりとした時の流れる「癒しの島」が徐々に水面に浮き上がる。観光客や旅人は遊びに来てるんだから、ゆっくりできるに決まってるのだ)。
開く可能性は、「一部の沖縄の人」「一部の本土の人」と語る場合である。この場合、ある文化・習慣が共有されている・されていたことを述べることができる。そして、それは似た形で行われる、他所の文化・習慣とともに並べることができるだろう。もーあしびは、日本やアジアの一部で見られる歌垣のひとつとして数えることもできる。模合も、日本の一部で見られる「頼母子講」「無尽」とともに考えることができるだろう。全体(まとまりがあるとは限らない)の一部という言明に、その事態の有限性がある。客観的に述べるときに、その人はどのような理解なのか、どんな観察者なのか、それはこの有限性と関わる。「自分が調べた限り、これこれについてこれこれである、こう言える」とするとき、その過程でその人の理解の立場は表現される。その際に特定の地域の特定のことについて考えるとき、「沖縄」という名詞は予想以上に広い。ある習慣をどの部落でもしてるわけではないし、どの家庭でもしてるわけでもない。「一部の沖縄の人」くらいでしか、真摯に実証的に述べることは難しいだろう。「客観的」に述べるのだから。
価値観ありのとき、そこには倫理的な位置や利害関係や価値観が入り、「沖縄」と「ヤマトゥ」のどちらかに感情を寄せて語るだろう。
価値観なしのとき、一方でそれは、名詞の全体化と閉鎖をするかもしれず、他方でそれは名詞の部分的使用と他者との連帯化の可能性をもつ。
このような錯綜しているなかで、「沖縄」や「内地」「本土」「ヤマトゥ」「県外」が使われている。それは、個々人にとっても錯綜していて使い方を意識したりしなかったりする。もしそれを、批判する場合、何をもって批判するのか、そこの問いたてかたが、まず問題にされなければならない。
と書いてきたが、これは、「言葉の使い方に気をつけろ」とゆう批判の問題の根を掘る作業で、批判への回答・展開ではない。もし「内地」「本土」「ヤマトゥ」の使用法について意識的でないと批判するならば、そのことを使用者にちゃんと説明してやればいい。望んでなくても。
そして、おそらく言葉の使用への批判が有効な場面とゆうのは、上でも述べた「代表」representに関わる場面である。代表者は、権力・政治に関わる。そもそも議員や知事は政治家であり、政府も政治家である。彼ら国家に直接権力を持つ者の認識を問うときに言葉の使用への注意深い観察は重要である。
また、representのもう一つの意味は表象・表現である。これに関わるものとして学者や、アーティスト(文字表現、視覚表現、聴覚表現など)、報道、観光産業が挙げられるだろう。ここにも、先ほど見たような、特徴の提示の問題(サンプリング、情報量のバランスなど)がある。ここにおいて、どの立場から何を表現するか、何をするのか、その人の価値観・目的が問われる。言葉の使用についても、何の目的でどんな歴史認識で何を伝えたくて、それを用いるの、その際にはどの批判に答えているのか,答えたいのか。そのようにみると、言葉の使用を、応答の一つとして考えることができる。そのほうが、場面に即した理解となるのではないか。植民地主義の問いや批判がないこともある。それでも何かに応答しているのだ。