加害者と受益者は同じか?

私は男に属しているのか?その利益を得ているのか?それは男ゆえにだろうか?何故にだろうか?

王家の娘と平民の男はどちらが利益を得ているのか?その利益の分配は誰が決めるのか?もらう側が決めれるものだっただろうか?与えられなければもらえないはずだ。知らぬうちに与えられてしまったものを、いかにして返還すればいいのか?その返還責任は私にあるのか?そしてその「現状」の変換責任は私にあるのか?

その行動は責任に基づいて行えるものだろうか?責任さえ示せば勝手に人は動くのだろうか?そのようなことはない、というのが実感だ。行動の下支えは調査や事実であり、行動する力は走り出すことそのもの、まさに運動そのものである。走り出せば止め辛くなるだろう。良くも悪くも走り出したら止めづらい。問題は、点検所を適宜設けることだが。エンジンに責任および責任感は機能し得るだろうか。とくに自己破壊的な、自己変革的な過程を経ることを求める責任追及、しかもその過程が曖昧模糊とした中で、何を変革できるのだろうか?何が変えるべきもので、何がそのままでよいものなのか?